9/23/2021

地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった


「神田」説の次は「潮の手」説 を

           「志手」地名考


 左の資料は1955(昭和30)年発刊の「大分市史 上巻」にある「先史時代」の大分市の地図です。赤線は分かりやすいようにと筆者が付けました。先史時代の大分市の海岸線です。現在の海抜7mのラインのようです。
 赤線の北側が海、南側が陸地。志手は地図の西側にあります。色鉛筆で〇をしてみました。この地図は何を意味しているのか。「志手はかつて海辺だった」ということです。

 先史時代とはいつのことなのか。グーグルなどで検索すると、旧石器・縄文・弥生時代などと出てきます。何万年も前から何千年前までと随分、漠然とした時代区分ですが、まあ、大昔、大分市の現在の中心市街地が海だったということです。

 志手の地名の語源を「磯辺」「潮の手」とする説を考えるには、それが分かっていれば大丈夫です。
 
 赤線を引いた上の写真のようなイメージでしょうか。赤い線から左側(北側)が海だった、と。

 1955(昭和30)年に出された大分市史にはもう一つ興味深い資料があります。市内の「弥生式遺跡」の分布図です。地図に書かれた遺跡の一つが毘沙門川(現住吉川)沿いの志手遺跡。少なくとも弥生時代には志手のあたりには人が定住していたということになります。

 人がいれば、その呼び名もあるでしょう。海辺に関連した言葉が「志手」の地名のルーツということは十分に考えられそうです。

 (興味を持たれた方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 左は1955(昭和30)年発行の大分市史にある弥生式遺跡分布図。「志手遺跡」を赤丸で囲ってみました。
 この市史を見るまで志手に弥生時代の遺跡があったということは知りませんでした。
 ただ、大掛かりな遺跡が見つかったというのではなく、弥生時代の土器の破片が見つかったというようなことのようです。ニュース性、話題性もあまりなかったようで、きちんとした調査は行われなかったようです。


 志手地区がかつては海辺にあり、かつ人が定住していた跡があったことを大分市史で確認しました。

 磯辺・潮の手説が書かれた本が図書館に


 そのうえで磯辺・潮の手説が書かれている「『和名抄』大分県古地名の語源と地誌」(口述 加藤貞弘 編集・写真 牧達夫 古国府歴史研究会 2003年5月発行)を見てみようと思います。大分県立図書館で借りました。
 
 和名抄とは「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしゅう)」の略で、平安時代の承平年間(931-938)に、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって、源順(みなもとのしたごう)が選集した、わが国最初の分類体和漢対照辞典である、との説明がまずあります。
 簡単に言えば、内親王の読書のための辞書で、約2600の漢語を分類し、その出典、文例、字音、語意を和語で説明した一種の百科事典だそうです。 

 その中に現在の大分県の郡郷名の一覧もあります。

 豊後国の郡は大分・於保伊多、速見・波夜美、国埼・君佐木、日高・比多、球珠・久須、直入・奈保里、大野・於保乃、海部・安萬の8郡。これに豊前国の下毛、宇佐両郡を加えた計10郡が現在の大分県だそうです。

 海辺を囲む長い段丘を表す「大分(おほぎた)」


 豊後国の大分郡には阿南、稙田、津守、荏隈、判大、跡部、武蔵、笠祖、笠和、神前の10郷が書かれていました。

 志手は笠和郷になります。

 「『和名抄』大分県古地名の語源と地誌」は、笠和郷について「カサ(上手)ワ(曲)で、上手の方が曲がったようになっている処」「カサ(嵩)ワ(曲)で、重々とした丘陵が湾曲している地」という解釈を示しています。

 同書は続けて「往時、現在の大分市中心部の平坦地は、その大部分が海でしたから、それを囲むような海岸段丘が笠和郷そのものといえます。この長大な段丘はまた『大分』地名を発祥させました」と解説します。

 古代に大分は「おほぎた」と呼ばれていたそうです。「大」(オホ)は美称、尊称で「大きい」「広い」「立派な」「中心となる」といった語意で、「キダ」は「段丘」、「切り刻まれた」という意味があるそうですが、同書は「キダ」を「海岸の長い段丘」の呼び名と解釈しています。

 「この段丘と海浜には古くから人が住みつき、瀬戸内海の潮流に乗って広く交易を行う先進地となり、4、5世紀の頃には大和や大陸と交流する地方国家が誕生しました。『大分君(おほいた、おおいたのきみ)』が統治した国です」と説明します。

 大分君(おほいた、おおいたのきみ)と言えば古宮古墳


 

 ちなみにこの「大分君」といえば、真っ先に古宮古墳が頭に浮かびます。このブログの連載2回目の「志手界隈案内① 志手の名所旧跡は?」で紹介しました。

 上の写真は大分市歴史資料館にある古宮古墳の模型です。

 同資料館の資料には、古宮古墳は7世紀後半の築造で、壬申の乱(672年)で大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)側について功績をあげた「大分君恵尺(おおいたのきみえさか)」が埋葬されている可能性が高いとあります。

 古宮古墳が出てくれば、同じく「志手界隈案内① 志手の名所旧跡は?」で書いた「亀甲山古墳」にも触れないわけにはいけません。

 古国府歴史研究会の「『和名抄』大分県古地名の語源と地誌」によると、早ければ4世紀には大和や大陸と交易する地方国家が成立していたとの話です。

 亀甲山古墳の埋葬者も「大分君(おおいたのきみ)」?


 亀甲山古墳が作られたのは4世紀後半とみられます。同古墳では、大和政権が全国各地の有力者に贈ったといわれる「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」が発見されています。すると、この古墳に葬られている人物も「大分君(おおいたのきみ)」なのでしょうか?

 
 結論を言うと、分かりません。
これまで誰も調べていないようなのです。「志手界隈案内①」で書きましたが、亀甲山古墳については資料によって「かめのこう」「きっこう」「きこう」と呼び名からしてバラバラだったりしています。古墳は埋められ、残っていないので、これ以上の調査研究のしようがないということなのでしょうか?

 古代の大分を追う有力な手掛かりの一つが消えてしまった。そんなふうに思えて残念でなりません。

 上の写真は亀甲山古墳で見つかった三角縁神獣鏡の複製品。大分市歴史資料館に展示されています。

 「シ」は磯、「テ」は方向を示す接尾語


 話が大きくズレてしまいました。「志手」の語源に戻りましょう。「『和名抄』大分県古地名の語源と地誌」によると、「シ(磯)テ(接尾語)、テは方向を示す接尾語で、磯の方、磯辺」。「古代は志手の段丘下まで海が寄せていた。その名残りの古地名」と同書は解釈します。

 続けて「潮の手が略されたシテも考えられる」とも書いています。

 なるほどと思う説です。ところで、誰がここをシテと呼んでいたのでしょうか?シテの住民、あるいはそれ以外の人々でしょうか?丘の上にいる人々が海の近くの低地をシテと呼んだのでしょうか?どこの誰がシテと言い始めたのか。少し気になりました。


 同書は大分県内に残る多くの古地名を解釈、解説しています。例えば、志手の隣の「椎迫」については、「シ(石、岩場)イ(囲)サ(挟)コ(処)で、岩場に囲まれた挟間の地」「シイ(段丘)サコ(挟処・谷)で、谷間のある丘陵地」などいくつかの説を示しています。

 こうした語源をたどり、さまざまに想像をめぐらすのは楽しいものです。磯辺・潮の手説も説得力がありそうですが、となると、磯辺・潮の手になぜ「志手」の漢字があてられるようになったか。それが次の疑問として頭に浮かびます。

 全国のほかの地域でも磯辺にある場所を「して」と呼び、「志手」の文字をあてているのでしょうか?もう少し調べてみる必要がありそうです。

 上の写真は志手にあるミカン園から大分の中心市街地を写したもの。ビルが建つ市街地はかつては海でした。写真左はこのミカン園に置かれたお地蔵さんです。
 


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